古代史はロマンがいっぱい!『持統天皇』(瀧浪貞子)読書ノート(前編)

読書ノート

はじめに ― 古代史はロマンがいっぱい!

大学受験で日本史を選択した受験生にとって、古代史は好き嫌いが大きく分かれるだろう。古代史は史料が読みづらく、1つ1つの知識をつなぐストーリーも描きにくい。古代史―特に飛鳥・白鳳時代―は、平安の優雅さも、戦国時代の熱さも、明治の狂騒も感じられないため、とっつきづらいと感じる人は多いだろう。

そんな古代史にロマンを感じさせてくれたのが、今日取り上げる『持統天皇』(瀧浪貞子)である。大化の改新を起こした中大兄皇子(天智天皇)の娘であり、天智の弟・天武天皇の皇后として君臨した持統天皇の生涯を描いた良書だ。本書で著者は、以下のことを教えてくれる。

●持統天皇は「ただのお飾り女帝」ではなかった!➡皇室の在り方を転換させた革命者
●我々が知っている「皇位継承のかたち」は、持統によって創り直されたものである

この本を読む前と後では、持統天皇へのイメージはがらり!と変わる。というのも、著者は史料を丹念に読み込みんだ上に豊かな想像と洞察によって魅力的なストーリーを描いており、持統天皇の姿をありありと描き出しているからだ。

それでは、天武と共に白鳳時代を駆け抜けた彼女の生涯を追いながら、天智・天武・持統が打破・形成した古代政治のあり方を見ていこう。

この本のテーマ

この本の中心テーマは「持統が壊した(旧来の)皇室の在り方」であり、それが以下の3つの切り口から語られている。

① 女帝はなぜ立てられるのか?
② なぜ天武と持統は旧来の伝統を壊したのか?
③ 皇位継承の不文律は「持統によって創り直された」

まず前提として、読了前の私が抱いていた「天皇」という制度へのイメージと、天武・持統以前の朝廷の慣習には大きく異なる点があった。

【飛鳥時代の朝廷の慣習】(p. 257)
●皇位継承は、親→子ではなく、兄→弟
●天皇には、30歳を越えないとなれない
●「譲位」という制度がない(天皇は亡くなるまで在位
意外だと思わないだろうか。「天皇の子が皇太子となって後を継ぐ」「若い天皇が即位し摂政が権限を持つ」「上皇や法皇がいる」時代を知っている我々は、この伝統が初期から脈々と伝わってきたものだと誤解しやすい。しかしそれらは皆、持統天皇以降の朝廷の姿なのだ。この3つの慣習は、持統によってぶち壊されたのだという。
では、順に見ていこう。

① 女帝はなぜ立てられるのか?

イメージと異なる乙巳の変

まずは持統のパパ、天智の時代から始めよう。

天智の時代はやはり「乙巳の変」で始まるイメージだ。中大兄皇子が刀で蘇我入鹿の首をぶった切る絵はもはやトラウマ級。これを私の社会の先生は皆、思いあがった蘇我氏を誅殺したヒーロー中大兄皇子!!と解説してきた。

しかし著者は、実態は少し異なると主張する。著者によると、確かに乙巳の変は中臣鎌足&中大兄皇子によって起こされたが、手引きしたのは蘇我倉山田石川麻呂(改新政府の右大臣)だというのだ。そもそも、鎌足&中大兄コンビは、乙巳の変の舞台となった重大式典に参列できる資格は無かったので(p. 8~9)、式典の主催者だった石川麻呂による手引きがあったのではないか、と示唆されている。

ちなみに私は「蘇我氏」と一括りに蘇我一族を捉えていたが、乙巳の変で亡くなった蝦夷・入鹿親子は蘇我宗家であり、石川麻呂は蔵の管理をしていた「蘇我倉」家の人間。宗家の入鹿と「蔵(倉)」家の石川麻呂は、仲が悪かったらしい(p. 6)。

中大兄皇子は天皇になるまで相当頑張った

乙巳の変の時点では、中大兄皇子が皇位を継承できる可能性はほぼ0だった。著者によるとそれは、彼の母(皇極/斉明天皇)が天皇だったからである。

皇極/斉明天皇とは、推古天皇の次に出てくる女帝だ。2度皇位についた(これを重祚といい、入試頻発ワード!)ことで知られる。えっ、天皇の息子だから次の天皇確実じゃないの?と思うだろう(私もそう思っていた)。が、実は女帝の息子だからこそ継げない…というのが、著者の説なのだ。

ここで、著者は「女帝はなぜ生まれるか」について非常に説得力のある論を展開している。

【女帝に対する筆者の見解】(p. 18~19)
女帝は、皇位継承の混乱を収めるための制度
→次の天皇が決まらないまま、先代が亡くなった際のバーター。
→先述の通り、皇位継承は原則、兄→弟。長男から末弟まで皇位継承された後、その子ども達の世代に移る。そこがスムーズにいかなかったとき、女帝が立てられる。
→同時に、子世代の誰かが立太子される
●女帝の実子は皇太子になれない
→権力集中を避けるため

例えば推古天皇だが、彼女の即位にはこんな背景がある。パパである欽明天皇の兄弟たちのうち、末弟にあたる崇峻天皇が即位。しかし彼は暗殺され、子世代へ皇位をスムーズに移せないまま死去。ここで皇位継承が途絶えてしまい混乱が生じる。

そこに、欽明パパの娘である推古がとりあえず即位、同時に子世代にあたる厩戸皇子が立太子するに至った(p. 14~15)そうだ。

非常に説得力のある解釈だと思う。しかしふと気になる…。他の女帝のことを考えると、元明天皇→元正天皇は「母→娘」の継承だし、聖武天皇→孝謙天皇は「父→娘」だぞと…。江戸時代の後水尾天皇→明正天皇も「父→娘」やんけと…。

著者はこの疑問にしっかり答えてくれた。曰く、「この「女帝の慣習」は持統が打破したのだ」、と。

天智天皇に話を戻すと、天智が即位するまでには、まずは皇極(ママ)→孝徳天皇(おじ)とワンクッション入れる必要があった。その後なんとか暗躍して孝徳を引きずり下ろし、その後の座を手に入れる…。天智天皇は、私たちの想定の何倍も頑張って皇位を手に入れたのだ。

② なぜ天武と持統は旧来の伝統を壊したのか?

(天智・)天武・持統は皇位継承の革命者

それでは天武&持統へ話を移そう。天武時代の幕開けはまぎれもなく「壬申の乱」から始まる。

壬申の乱ね…ハイハイ受験で必ず覚えさせられるやつね、と。もう必ず出てくるから仕方なく覚えるやつだ、と。内容は知ってるよ、天智の子と弟が戦ったんでしょ、と…

しかし背景をしっかり知っている人はほとんどいないのではないだろうか?

特に、乱に負けてしまった子・大友皇子の印象はさらに薄い!私も勝手に、弱そうな2世議員みたいなイメージを持っていた。しかし!!『懐風藻』によると大友皇子には「王者としての風格」があり(p. 95)、逞しい身体におめめキラキラで文武両道の好男子だったと書かれている。だからこそ天智天皇は、不文律であった「兄→弟」の継承を破って、大友に継がせたいと思ってしまったのかもしれない。

「俺の息子を頼んだ…」と残して死去した天智。それに対し、天武は「俺皇位興味ないもーん」と一旦吉野(奈良県)へ。しかし天武はなんやかんやで舞い戻り、兄の遺言をガン無視して大友を追い落とした。そこには、優れた政治力を持つ(p. 132)参謀である持統の存在も大きかったそうだ。

何はともあれ、無事に天皇の座をゲットした天武は、当然次の後継者を考える。皇太子として挙げられたのは、持統との息子である草壁皇子だった。そして彼を巡って持統ママの暗躍が始まるのである……!!

と、熱く次を語りたいのが長くなってしまったので後編へ続きます。

古代史はロマンがいっぱい!『持統天皇』(瀧浪貞子)読書ノート(後編)
前編では、「古代史における女性の役割」そして「天智政権→壬申の乱→草壁皇子を後継者とする」までを見ていった。この後編ではやっと、本書の中心人物たる持統天皇が動き出す。さあ、彼女の暗躍ぶりと、彼女によって大きく方向転換させられた皇室の在り...

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