実学とはなんぞや?『学問のすゝめ』(福沢諭吉) 読書ノート①

はじめに――福沢の「実学の重視」を問う

なんだか最近「実学」という言葉が独り歩きしているように感じる。この言葉は大方、「実用的」「役に立つ」「進歩に直接貢献する」学問という意味合いで用いられていることが多く、時折「文系は実学ではない」といったフレーズで文系学生に自らの学問領域を振り返らせる言葉である。

「実学」という言葉の使用について、最も知られているのは福沢諭吉だろう。彼は著書『学問のすゝめ』で、「これからの世の中は実学を重視せよ」と説いた。

この彼の著述を引いて、「実学」以外ではない――簡単に言えば「それ何の役に立つの?」と言われてしまいがちな――学問を批判する人は後を絶たない(そういった人は「実学」(と彼らが思っているもの)以外の学問を「虚学」と呼ぶ。虚ろな学。嫌な言葉だ)。一文系学生としてこの風潮にはモノ申したいところがあるため、今日は福沢が指す「実学」について再考したい。

福沢は「実学」をどう定義しているか

学部時代、経済学部に所属する人と話をしていた時にこんなことを言われた。

「文学部とか文系って何の役に立つの?文系っていわゆる“虚学”だよね。実用的なものではないから学んでも人の役に立たないし、社会の役にも立たない。福沢諭吉も「実学の重視」で文系は不要って言ってるし」

これを聞いて、うーん、たまげたなあと思った。諭吉先生はそんなこと一言も言ってないやい、『福翁自伝』ちゃんと読んだか?と。

では、その有名な「実学の重視」の部分、『学問のすゝめ』該当箇所から読んでみよう。

学問とは、ただむずかしき字を知り、し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心をよろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめとうとむべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。(中略)
されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なりたとえば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言もんごん、帳合いの仕方、算盤そろばんの稽古、天秤てんびんの取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土ふうど道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。(太字は筆者による)

引用元:青空文庫『学問のすすめ』

これを読んで「ふむふむ。日常で直接使える学問(人間普通日用に近き実学)を学べばいいんだな。うん、やっぱり文系は日常生活に直接関係ないので実学じゃない!」と思った人はよく読んで!!「されば今、」以下をしっかり読んでほしい。福沢は文系が無用の長物とは一言も言っていない。彼は「世の中と結びつきのあるもの」を実学と考え、それに「もっぱら(=主に)勤しめ」と主張しているのである。

というか、「学ぶべき箇条」としてここに挙げられている「地理学」「歴史」「修身学」(=倫理学)はどれも、今“文系”という学問の下に置かれている分野ではないだろうか。

また、福沢がこの主張をした時代背景も無視できない。彼が生きた幕末~明治の時代は、政治・外交は勿論のこと、学問においても大きなパラダイムシフトが起きていた。江戸時代において重視された学問は儒学であり、訓詁学(テキストの語義理解を中心とするいわば英文読解のような学問)的学問だった。寺子屋では読み・書き・そろばんを教えてはいたものの、これは現代の小学校教育のようなレベルのものではない。やはり学者として敬われる存在は、昌平坂学問所で教鞭をとるような儒学者だったのである。

こうした字義の解釈に終始する学問の世界に対し、「もっと技術的な教育を!すぐ役に立つ学問を!」と言うのは当然の流れである。しかし、それをそのまま現代に持ち込むことは危険ではないだろうか。

時代と共に変わったもの

現代は明治と大きく異なる。明治に充満していた「列強に追いつけ追い越せ」といった強迫観念にも似た気魄は日本に今やもうない。明治のあの気魄は後に昭和の狂騒へと繋がっていき、肥大した対外強硬意識は太平洋戦争によって丸ごと破壊される。その際、日本の“良い意味で尖っていた”部分がそっくり削り取られ、平成――そして令和も――はまんまると間延びした社会へと変わっていった。

その中で、当然教育の価値も変わってくる。福沢は「一身独立して国家独立す」(まず国民一人一人が独立することで、その代弁者である国家は初めて独立できる)と説いたが、今や自らを教養して個人として独立することは、国家の独立のためではない。それより、より高所得で高階層の社会的地位を実現する手段となりつつある。

確かに、目の前に外国の脅威が迫っている中、国民全員が江戸時代のような素読に勤しんでいたら、技術力・経済力を盾に矛にしてくる列強に食い物にされてしまうだろう。しかし現代は、そういった直接的脅威からは一見解放された世界である。

だからこそ、国民は国家の行く末を案ずることなく、自分のことだけに終始できる。そういう意味では「国家独立して一身独立す」もまた然りなのだろう。住んでいる環境に安全があって初めて、思索は可能になる。それならば尚のこと、今はどの学問が「実学」で「虚学」でなどという議論はそれこそ無用の長物である。差し迫る身の危険がない今、すぐに使えはしないが人類の知にとって絶対に必要なものに現代の我々はフォーカスする余裕があり、必要性がある。

文系・理系という枠組みは二元論的見方

「文系は実学ではない」という言葉を聞くたびに私は、もう文系・理系という区分など廃止したらいいんじゃないか、と思う。そもそも「文系」「理系」って何を指しているのか曖昧でよく分からない。心理学は日本では文系にカテゴライズされているが、海外では理系的な位置付けである。

それよりも、人文科学系列、社会科学系、自然科学系、と改めた方がいい。文系・理系という枠組みは「文」と「理」で世界が分かたれているかのような感じを人に与える。実際は全てが文理で分離できる領域などほとんどないというのに。

人間は白黒つけるのが好きである。戸田山和久も『科学的思考のレッスン』で、「何が科学で、何が科学でないか…というように、二元論的な見方に陥ると、疑似科学につけ入る隙を与える」と言っている。

先ほどの人文/社会/自然の区分は全てに、「科学」という言葉が使われている。この科学とは、テクノロジーと結びつけられ「科学技術」という言葉で語られることが多いが、決して科学とは“理系”分野の専有物ではない。

これに関して、斎藤孝の著述を引いてみよう。彼は福沢の”実学”についてこう解説している。

福沢が重視しているのは、現実を作っていく力があって、社会を発展させ進化させることに直接寄与するような、いわゆる科学的な学問です。しかもそれを、「学問のための学問」として学ぶのではなく、自分のたずさわる仕事に役立てる形で学べと言ったのです。

引用元:『福沢諭吉 学問のすゝめ』(斉藤孝)

つまり、福沢の“実学”論で重要な点は「学びは常に自分と結びつけよ」というメッセージである。ここで言う「科学」とはおそらく「科学技術」の科学ではない。仮説や論理を重視する学問全般の営み全般を指す意味の「科学」だろう。

論理を第三者が客観的に辿れるのか、が科学の肝要な点である。現在学問として成り立っている領域は、全てこの点で共通している。一見自分の生活に無関係な学問でも、今の自分を形作る知的遺産を支えてきたのがこの科学の営みだ。だからこそ、人類に無関係で無意味な科学はないのである。

おわりに――やはり現代でも、”学問はおすすめ”

現代において、学ぶことはどんな意味があるのか。その意味が人それぞれなのは間違いないが、知識は精神を豊かにすることは間違いない。「教養とは何か」の記事でも書いたが、教養は楽しみを増やし、生きることを豊かにする。教養の基礎となるのは知識だ。福沢が『学問のすゝめ』を著した時代から変わらず、”学問はおすすめ”である。

教養とは何か?大学4年間で考えた成果をまとめます。
大学入学以来、ずっと向き合い続けてきた「教養とは何か」という問い。今4年間の修行を終えて卒業するにあたり、教養について考えてきたことをまとめました。これから大学に入学する方・在学中の方、参考にしていただければ幸いです。もう卒業した方、一緒に考えていただければ嬉しいです。

出典

  • 福沢諭吉『学問のすゝめ』(青空文庫)
  • 斎藤孝『NHK「100分de名著」ブックス 福沢諭吉 学問のすゝめ』(2012.3, NHK出版)

 

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