生前の意志表示を周りはどう受け止めるか。――終末医療を考える

はじめに

就活するにあたり、よく”死”について考える。しばらくの間人生を共にする会社を選ぶ上では、将来のライフプラン、そしてそれに基づくキャリアプランを漠然と描く必要があるため、「どんな人生を送りたいか」自分に問いかけることが多い。そこでは「どんな死を迎えたいか」という人生で最も難解な問いの1つに触れざるを得ず、考えること自体が私を若干憂鬱にさせる。でも考えずにはいられない。いつか必ず向き合わねばならない問いだからだ。

人生の最期については、おそらく多くの人が病と向き合って過ごすこととなるだろうし、私も例外ではないように思う。治安が良く平和で、医療体制が整っており、日頃から命を脅かされる危険性のない日本で生きている我々日本人にとって、死の恐怖を感じさせるもののは「加齢と共に忍び寄ってくる病」以外にあまりない。だからこそ、病が治らないと分かったときにそれをどう受け止めるのか。それが最も重要な問いであり、本記事のテーマだ。

『崩れる脳を抱きしめて』から感じたこと

先日、終末医療を受ける患者が描かれた『崩れる脳を抱きしめて』という知念実希人の小説を読んだ。この物語では、研修医の主人公・碓氷が終末医療を受ける女性ユカリと出会い、彼女とふれあう中で自らを縛っていた呪い――「金」と「父」への恨み――と向き合う。その中では、終末医療に関してよく議題に上がる「DNR(=do not resuscitate:蘇生措置拒否)」も扱われていた。

DNRとは、「もしも心肺が停止した際には蘇生術を行わず、そのまま自然に死を迎えたい」という生前の意思表示の一形態である。医療が進んだ日本では、本人がそれを望む望まないに関わらず生命を生かし続けることが可能であるため、どのような最期を迎えたいか――つまり「どのように命を終わらせたいのか」については、意識朦朧となる前に意思表示をしておく必要がある。

この意思表示においては、当然「本人の意志」が最も重視される。人それぞれの生は生きている当人のものであるのだから、これは至極当然のことだ。しかしここで問いたいのは、

① 人生の終わりにおける”本人の意志”とは、いつの時点のものを指すのか?
② 本人の意志が反映されていれば、家族の意志はまるまる無視されていいのか?(=本人の意志は常に家族の意志を優越するべきか?)

…という2点である。①は意志表示の更新性、②は「生は当人だけが独占する権利なのか」という点が論点となってくる。それでは、順に考えていこう。

① 人生の終わりにおける”本人の意志”とは、いつの時点のものを指すのか?

患者は「生命の終わり」についての意思表示を、まだ意識がはっきりしているうちに行う。まだ思考する能力が残ってるうちに前もって、生命の終わらせ方について自分がどんな意向を持っているのか表明するのだ。

しかし、これは「患者の意志が時間の経過とともに変化しない」ことが前提にされている。意識がなくなった時には意志が伝えられない、だから元気なうちに伝えておこう…という趣旨であるのだから。

しかし、本当に「生命の終わりを単に描いている段階」と「生命の終わりが目前に迫っている段階」では抱く感情は変わらないのだろうか?
例としては不適切かもしれないが、ジェットコースターに乗る前は「楽しそう楽しそう」と思っても土壇場で「いや…これ怖い。やっぱ無理諦めよう」と感情と決断が翻ることなんてざらにある。アトラクションへの搭乗程度の恐怖でこれなのだから、死という人生最大の恐怖を目の前にして、感情・決断が翻えることがないわけがないのだ。

これについて1つのケースを紹介したい。NHKで放送されたドキュメンタリー「ありのままの最期 末期がんの“看取り医師” 死までの450日」である。

ありのままの最期 末期がんの“看取り医師” 死までの450日 -NHKオンデマンド
始まりは2年前の12月。末期のすい臓がんで余命わずかと宣告された医師がいると聞き、取材に向かった。田中雅博さん(当時69)。医師として、僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせてきた「看取(みと)りのスペシャリスト」だ。千人以上を看取った田中さんの「究極の理想の死」を記録しようと始めた撮影。しかし、次々と想定外の出...

これは、末期がんに罹った田中雅博さん(当時69)を取材したドキュメンタリー番組である。この方は医師であり僧侶である、終末医療のスペシャリスト。死ぬことへの恐れのある人の苦痛を緩和し、穏やかな死を迎えてもらうことを仕事にしてきた人だ。その人が、自分がいざ終末医療を受けるにあたって、どのように死を迎えるのか。それを密着取材したものだ。私は大学1年の時にサークルのディスカッションで視聴したのだが、度肝を抜かれ、深く記憶に刻み付けられた。

動画説明によると、この撮影は「終末医療のスペシャリストが迎える『究極の理想の死』」を記録するために始められたという。確かに、余命を宣告された田中さんは毅然とDNRの意思表示をし、死を迎える準備が十全に整っているかに見えた。しかし、病状が悪化するにつれて彼の様相は変わってくる。

結論から言うと、DNRの意思表示をした田中さんは死を目前にして「死にたくない」と妻に縋り、涙を流した。この「死にたくない」といったときの表情、それは恐怖に取り憑かれたものだった。

時間が経過すれば意志は変わり得る。田中さんも「死にたくない」と泣いた後、いざ治療が開始され痛みに苦しんでいく中で「安楽死したい」と思うようになったかもしれない。だが、外部とコミュニケーションができなくなってしまったその時、それを表明する術はその時既にない。

そう思うと、だんだん生前の意志表示にどれほどの意味があるのか?と疑問を感じざるを得なくなってくる。以前は、「意志を確認しないよりはした方がいいだろう」と思っていたけれど、必ずしもそうではないのかもしれない。なぜならば、周りがその生前の意志表示に縛られ、死を目前にした患者の本当の意志をくみ取る努力を怠ってしまうかもしれないからだ。

② 本人の意志が反映されていれば、家族の意志はまるまる無視されていいのか?

家族の方が思いは強い?

さらに、ずっと疑問に思っているのが「生の決定権は本当に当人だけのものか」ということだ。誰かが生きていて、その人が生きている意味をより重く受け取るのは本人より周りの人間なのではないかと強く思う。

あなたは、自分が生きている意味をどう捉えているか。私は、自分にとっての自分が生きる意味をまだ見つけられていない。自分にとって大切な人…家族やパートナー、親友がもしも全員この世から消えてしまったら、自ら命を絶ってしまうと思う。

でも、誰かにとっての自分が生きる意味はあると思っている。自分にとって自分は必要なくても、誰かにとっては必要かもしれない。私を必要としてくれている誰かが1人でもいる限り、私はその人のために生きたい。これはおそらく「本当に死にそう」という場面に立ったことがなく「生きよう」と心から思ったことがないからこその生ぬるい考え方なのかもしれないが、これが現時点での私の”意志”だ。

結局、その人に生きていてほしいと望んでいるのは、その人自身より周りの人間なのではないか。生を営んでいる張本人がその生をどうしたいか…という意志を尊重するのは、とても大事なことだ。でもそれも、本人の意志を尊重したがっているのは、その人自身ではなく、周りの人なのかもしれない。本人が「俺の意志を尊重してくれよ!」っていうより、周りが「本人の望む通りの最期を迎えさせてあげたい」と考えているから本人の意思を確認したいのではないか。

先ほどの田中さんの例でも、元医療従事者である田中さんの妻は、「死にたくない」と言った彼に徹底的に救命措置を施すことを決める。最期の瞬間まで治療を諦めず、本人が拒否していた心肺蘇生も希望した。身体が病によって衰弱し立ち上がれなくなっても、器具を用いて半ば身体を縛り付けるようにして立ち上がらせた。それを見て彼女は「(立ち上がれて)よかったね」と言ったのだ。

それを見て私は、家族の思いの強さに鳥肌が立った。傍から見れば、彼女の行動は賛否両論(むしろ否が多そう)あると思う。田中さん本人はもう言葉を話すことはできず、うめき声を上げることしかできず、立ち上がれて嬉しいのかも定かではない。しかし、田中さんの妻として長年寄り添ってきた彼女からすれば、彼がどういう形であれまた立ち上がれたことが心から嬉しそうなのだ。この気持ち、全く理解できないという人は少ないのではないだろうか。

おわりに――思いがあるのは家族だけではない

その人に「生きていてほしい」と願っているのは家族だけではない。医療従事者もまた強い願いを持っている。

先述の『崩れる脳を抱きしめて』でも、医療従事者の強い思いが伺える。以下に引用するシーンは、DNRを希望する患者ハナさんが蘇生措置を受けずに亡くなった後、ユカリも同じように意識を失い、医師である主人公が蘇生措置を施して一命をとりとめた後のシーンである。ユカリもDNRを希望しており、治療を施されたユカリはご機嫌斜めになぜ助けたのか尋ねる。

「なんで助けたの? 蘇生は必要ないって意思表示はしていたはずなのに」
「僕が駆けつけた時点で、心肺停止状態ではありませんでした。それに、ユカリさんはまだ死ぬべきじゃない。死んじゃいけないと思ったからです」
「死ぬべきじゃない?」ユカリさんの目付きが鋭くなった。「誰がいつ死ぬべきかなんて、なんでウスイ先生に決められるの?医者ってそんなに偉いわけ」
「そんなことはありません」僕は首を横に振る。
「じゃあ、なんで私が死ぬべきじゃないなんて言えるのよ?」
「これまで、ユカリさんを見てきたからです」(中略)「ユカリさんはハナさんとは違います。まだ生きてやりたいことがたくさんあって、それを毎日絵に描いている。そんな人を見捨てるわけにはいきませんでした。それに僕は……」
一瞬ためらったあと、僕はその言葉を口にする。
「僕はユカリさんに死んでほしくなかったんです」(中略)
「私に死んでほしくなかったって、完全に私情じゃない?それってプロとしてどうなの?」

知念実希人『崩れる脳を抱きしめて』p.91

100%の力を尽くして患者を救うことをミッションとしている医療従事者にとって、杓子定規に「DNRだから」と救命を止めることは容易ではないだろう。コロナの状況下でも、医療従事者の皆さんは文字通り命を削って人を救おうとしている。人を救うことを信念としている人に「救わないでいい」「救わないでくれ」と言うことは残酷だ。知念さんは医師でもあるので、その気持ちを主人公に託したのかもしれない。

いずれにせよ、終末医療に関してはまだまだ話し合われるべき論点がたくさんある。死について語ることは非常に憂鬱だが、語っておかねばもっと憂鬱な未来が待っているかもしれない。なんとなく目を背けるのではなく、積極的に目を向けることで「死」という未知の状況への恐怖感も少しは和らぐのではないだろうか。

出典

  • 知念実希人『崩れる脳を抱きしめて』(2017.9, 実業之日本社)
  • ありのままの最期 末期がんの“看取り医師” 死までの450日. NHK, 2017-10-8. (テレビ番組)

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