対談集が果たす役割を再認識。『研究する意味』読書ノート

「対談集」が与えてくれること

「研究したいことがあるのに、どんな本を読んだらいいか分からない」。膨大な書籍や論文にリーチできる今、こうした悩みを抱えることも多いと思う。かく言う私も、「この分野を深く知りたい」と当てを付けて図書館に足を運んでも、結局選択肢(=本、論者)が多すぎて、何を手に取ったら良いやらわからず出ることがある。

そうした時、1つの有効な解決策が「その分野でよく名前を聞く論者の本を読んでみる」ことだと気が付いた。

…いや当たり前のこと言うなよ!!!と言われてしまいそうである。しかも、以下のように反論を受けそうだ。『それは分かっているけど、どの本から読めばいいのか分からないんだよ!』…わかるぞー、実によくわかる。社会学を学んでいる私にも、読むべき本・論者は大量にある。それこそ、海外ではマルクス、デュルケム、ヴェーバー…、日本では見田宗介をはじめ大澤真幸など社会学の大家と言われている人を読まねばならない。しかし、やはり、最初の問に帰ってきてしまう。「結局どれから読めばいいの?」と。

そんな人には、「その代表的論者が出している対談集を読んでみる」ことをオススメしたい。なぜ対談集なのか?それは、以下の二つの理由からである。

読みやすさ – 対談集なので、難解な専門用語が濫発されておらず、会話形式のため平易な文章で書かれていることが多い。
経緯が把握できる – 大抵の場合、対談の中で、著者が書いてきた書籍や論文が紹介されている。そのとき、どんな背景と問題意識/思いをもって書いてきたのか言及されているので、著述の理解を始める前に概要と主張が把握できる(⇒読むハードルを下げる)。
 

今回私が紹介する『研究する意味』も対談集である。人文社会系の研究者による対談集で、これから研究者になろうとしている学生に向けて書かれている。発刊された2003年は、ちょうど9.11テロ事件後であり、全論者が9.11後の社会について論じていた。

なぜ読み始めたか

読み始めたきっかけは、研究の中間発表だった。4月に入学して以来、「グリーン資本主義再考」というテーマで研究の〈問い〉を詰めてきた成果をゼミで発表したのだが、わりとボコボコにされてしまった。若干意気消沈したまま、ふらふらっと図書館に入り、「研究ってむずかしいなあ」と思っていたら、ふと「研究する意味」という、まさに今答えてほしい問を題した本書を見つけたのである。

余談だが、この「ふと見つけた」現象は、必ずしも単なる偶然ではない。心理学的にいう「カクテルパーティー現象」と呼ばれるものである。人間の脳は、自分が注目したいと思っていることに注意を向けさせるRAS(Reticular Activating System、網様体賦活系(もうようたいふかつけい))という機能を持っていて、無意識に得たいと思っている情報を収集する一助となっているそうな。

それでは前置きはここまでにして、本の内容に入っていこう。

「ボーダーレス化するために」ボーダーを強固にする必要性

初っ端から、小森陽一・金子勝・高橋哲哉の鼎談から始まった。彼らは様々な示唆を残していたのだが、その中でも「学問・領域のボーダーレス化」に関する三者の主張が非常に心に刺さったので紹介したい。

「具体的、実践的な人文社会科学の研究がボーダーレスになることには必然性があるのです。言葉の領域を問題にする以上、文学という枠組みそれ自体が、きわめて人工的に恣意的につくられているものだから、そこを突破していかざるを得ない。」(p.38、小森)

実際の社会には当然「〇〇学」単独で括れる現象は存在しない。にも拘らず、1つの学問を修めていると、その学問単独で世界が語れるかのような錯覚に陥ってしまう(経験談)。だからこそ1つの学問に閉じこもるのではなく、ボーダーを超えていかなければならないから「学際」「学融合」という言葉が出てくるのだが、これに対して金子と高橋が釘を刺す。

金子「ディテールを語れないで、その領域をわかったような気になるのが一番まずいのです。拠点となる学問は極めないとダメだし、基礎学力も最低限必要です。」(P.39、金子)

「「デリダを研究したい」という学生が来ます。でも、フッサールを読んだか、プラトンは、デカルトは、カントは、ヘーゲルは、ハイデッガーは、という話になる。デリダは西洋哲学の歴史全部を踏まえて、そのうえでものを言っているわけですから、おおもとを知らなければ全然話にならないわけです。」(p.42、高橋)

そう…ボーダーを越えるためには、まずボーダーを強固にしなければならないのだ。これは、私が今所属している「学融合」を掲げた学部に入る前、学部時代のゼミの先生も言われたことだった。

まず自分が寄って立つ大きな樹がないと、いろんな分野が入り乱れる中に入っていったとき、迷子になる。何より、「なんでも学ぶといいつつなにも(体系的に)学べなかった」という事態に陥り、不安になってしまう。そうならないためにも、自分が寄りどころとする見方を身に着けておく。私であれば社会学。きちんと学びなおさねばならない。

大澤真幸の対談から

「思うに、学問には二つのベクトル、二つの方向があります。ひとつは、私たちのコモンセンスの上に建物を建てていくという学問です。(中略)もうひとつ、コモンセンスの下にもぐる学問というのがあると思うのです。」(p.95)

社会学には、確立されたコモンセンスのようなものがほとんど(全く…?)ないので、ほぼ必然的に後者の方向になるだろう。

後者に関して思ったのは、「コモンセンスの下にもぐった」後どうなるかということである。コモンセンスの下にもぐるということは、常識とされている見方を疑ったり、そこに新しい見方を提示したりすることである。しかし、学問の営みは「誰かがコモンセンスの下にもぐって終了」ではない。

誰かがコモンセンスの下にもぐる
⇒ 何らかのアナザー・センスを打ち立てる
⇒ そのアナザー・センスに続く人が出てくる
⇒ そのアナザー・センスが、続いた人たちの中で、コモンセンスと化してくる
⇒ “地域限定”のコモンセンスとして確立する
『人新世の資本論』の斎藤の主張を例に挙げると、以下のような流れである。
グリーン資本主義という”コモンセンス”を疑う
⇒ 脱成長コミュニズムを提唱する
⇒ (斎藤の)脱成長コミュニズムという提案を基に思索・批判が蓄積する
⇒ グリーン資本主義反対者の中で脱成長コミュニズムが1つのコモンセンスとして確立する

そして、また別の誰かがその新しいコモンセンスの下にもぐる…このループが続いていくのだろう。

そう考えると、先行研究を読むことがいかに重要かがわかってくる。誰かがコモンセンスの下にもぐった形跡が論文として残されているのであれば、別の誰かがそこで達成されなかったことを追究したり、それを手がかりにさらに深くもぐることが可能になるためだ。逆に、誰かがさきにもぐっているのであれば、同じ〈もぐり〉をしたって先に進まない。

「読むこととの付き合い方」への主張

研究のためには、まず本・論文を読まねばならない。本書では、研究過程の基礎中の基礎中の基礎ともいえる「読む」という行為に対して、各論者が様々な考察を展開していた。

本との〈出会い方〉

まず、大澤真幸。彼は、マルクス主義という大きな指針を失った時代を研究していく今後の研究者に対して、「どんな研究をすべきかわからなくなったとき」の対処として以下のように述べていた。

それには二〇代中盤くらいまでに、自分にとって非常にそりのいい、つまり読んでいてすごくわかると思える学者を見つけだすことを奨めます。その著作を徹底して読むことで、自分が深く考えることができるような学者を見つけるのです。(p.106)

資本主義社会を当然として享受してきた私から見て、「かつて学問の社会においてマルクス主義が学問の指針となっていた」という事実は多少衝撃的だった。

「そりのいい」「すごくわかる」学者を見つけるのは、難しい。現在、修士課程の指導を受けている先生の本は、いつも私に「すごくわかる」という心持を与えてくれるのだが、「そりがいい」とは思わせてくれない。まだまだ読みが足りないのだろう…。

本の〈読み方〉

次に、本の〈読み方〉というもう少し実践的な段階について。まず藤原帰一は以下のように話す。

「(中略)ある理論やある発見を説得するように書かれたものだということを前提として、「本当にそうかな?」と疑いながら読む。いわば、書評を書くように読む。(中略)その本によって何が達成されて、何が達成されていないかを見抜くことです。」(p.132)

次に、竹村和子の主張。

「読みながら、いま読んでいるものがどういう枠組みのなかにあり、どの視点が足りないのかを考える。」p.161

両者とも、単なる享受で終わるなと戒めている。しかし、この境地に至れるのは、まずは享受の読書をある程度こなした人だけであろうこともまた確かである。まだ量をこなせていない人間は、懐疑したくても前提が確立されていないから懐疑できない。

おわりに

結論から言うと、この本を読んで「研究する意味」は私の中では見つからなかった。しかしそれよりも、「研究する意味を探す方法」が得られたように感じる。
そして、各論者が持ってきた問題意識、思い、そして個別の学問領域の経験を生かして書かれた珠玉の著作達を、これを機に手に取ってみたいと思った。

出典

小森陽一監修『研究する意味』(2003). 東京都書株式会社

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