『花束みたいな恋をした』映画ノート(前編)

映画ノート

先日3/20(土)、『花束みたいな恋をした』を映画館で視聴した。

結論から言って、非常に多くのことを考えさせられ感極まってしまった、いい映画だった。特に「モラトリアムを満喫する大学生から、責任を伴う社会人へ」という過渡期にいる大学生にとっては、刺さる。以下、『花束みたいな恋をした』視聴前~視聴後までを記していくので、もし見ようか迷っている方は読んで下さると嬉しい。そして読了後は映画館に直行しよう(もう終わりそうなのでDVDを入手しよう)。

視聴前のイメージ

見に出かけたきっかけは、パートナーからの「京王線を舞台にした映画があるから見に行かないか」というお誘いだった。最初は「うーん……恋愛モノか、うーん」といった感じ。というのも、私は物語にかなり感情移入してしまうタイプなので、物語展開と作品の印象がいつまでも生活の中につきまとってしまい、映画がハッピーエンドでないとその後引きずって鬱々としてしまうためである。しかも今回、タイトルが”恋をした”と過去形なので、「うーん…終わった恋なのかな、バッドエンドか?」と予想がつき、しばし躊躇。しかし、普段フィクションをあまり積極的に見ない彼からのせっかくのお誘いなので、是非にと映画館へ。

視聴後「映画館で、今日この日に、見てよかった」

視聴してみて言えることは、映画館で見てよかった。おそらく、Amazon解禁後にスマホの小さな画面で見ていたらこの感動は得られなかった。Amazon Primeと何が違うかというと、映画館は強制的にスマホやその他雑念から解放される空間だということ。常に傍らにスマホがあり、いじれる状況にある現代人にとってこうした空間は意外と貴重だったりする。普段、日常の生活空間で映画を見る際、こうしたスマホの誘惑などが世界観への没入を妨げている。しかし、映画館で強制的に真っ暗な空間で映像に集中させられることで、画面の隅々まで堪能し、身体全体で映画を受け止めようとしている自分がいた。

そして、私の人生における2021年3月20日という日に見てよかった。理由は、この映画の隅々に漂う「現代の若者が持つ文化や雰囲気」を余すことなく共有できたからである。この映画は、主人公の絹と麦が大学時代にひょんなことから偶然出会い、恋をして、その恋が社会で生きていくにつれて変容していく様を描いており、現在大学4年生(卒業しました✌)の私は二人と同じ時代を生きてきたので、感性の多くに共感することができた。この”共感”がこの映画を楽しむ重要なカギとなってくる。もしも5年後の社会人の私、もしくは5年前の高校生の私がこれを見たとしても、「ふーん、切ない恋愛モノだったね」で終わっていただろう。大学生活を終えたまさに今だからこそ、深く深く突き刺さったと言える。この、『花束みたいな恋をした』の通底にある大学生のカルチャーについては、次の項で触れていく。

この映画の特徴

あらすじ

映画『花束みたいな恋をした』公式サイト
主演:菅田将暉、有村架純、脚本:坂元裕二、監督:土井裕泰 大ヒット上映中!

詳しいあらすじは、↑の公式サイトをチェック!

本作のW主人公、山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は大学生。2人はある日、井の頭線の明大前駅にて同時に終電を逃す。ひょんなことから話をすることになったのだが、2人には共通の特徴があった。それは「”サブカルの本流”からは少しズレた文化を愛している」ということ。世間一般で広く受け入れられているようなサブカルチャー(分かりやすい例で言うと『鬼滅の刃』だったり「NiziU」だったり。サブカルの領域内ではあるものの、「オタク」ではない一般人にも楽しまれているようなサブカル)を、若干斜めに見ていて、まだマイナーだけど高い(潜在)価値を持っている文化を享受している者同士(同志)だということ。…平たく言えば二人は「こんなにいいのに、皆わかっていないよね」「これ分かる私たちって、なんかいいよね」という感じで共鳴し合ったのだ。

秀逸に選ばれた、大学生文化を表象するキーワード

この、「”サブカルの本流”からは少しズレた文化を愛している」様子を表すために、作中では様々なキーワードが飛び交う。自分が記憶に留められている範囲で挙げると、有名になる前のAwesome City Clubや 押井守、今村夏子など。皆さん押井守監督の顔知ってますか?作品(『うる星やつら』『攻殻機動隊』など。私は『スカイ・クロラ』が好き)は知っている方も多いかもしれないが、なかなか顔まで知ってる人は珍しいと思う。でも、絹と麦は押井守の顔を知っている。知っているぐらい、深くサブカルと向き合っている。多くの人がいろんな領域のサブカルにある程度の”浅さ”で浸っているのとは対照的に、二人はどっぷり深く浸かっている。簡潔に言うならば、「にわかではない私たち!!」という部分にアイデンティティを感じているのだ。

私は、このキーワード選びが非常に秀逸だと思った。このキーワード群は大学生のリアルを本当に巧く反映していると思う。二人のサブカル談義を聞いていて「そうそう!●●(キーワード)知ってる奴はわかってるよね、にわかじゃないよね!わかる~!」って思わせてくるのがマジで巧い。だがこれって、今の、2021年に若者をやっている人じゃないとなかなか響きにくいんじゃないか、っていう引っかかりもまたあった。そこも含めて、このキーワード選びは非常に「挑戦的」だと思った。

大学生の感性 ⇒ 社会人の感性への変化がリアル

文化は、平和で心に余裕が生まれた時に隆盛すると言われている。哲学がアテネで盛り上がったのも、江戸で大規模な文化が花開いたのも、平和になって生活に余裕が生まれ、余計なもの(=文化)を生み出す余力があってこそである。毎日の命の危機が迫っている時に、生活に無関係な文化を生み出している暇はないのだ。

これに倣えば、大学生という比較的時間と心に余裕のあ(りまく)る期間は、文化に浸り放題の期間だといえる。次の日の朝を考えずにライブへ行ってオールしたり、講義終わりになんとなく喫茶店に寄って小説を読んだり。課題をやらずにゲームしたり。流行りの音楽を聴いたり。宅飲みして友達の家に泊まったり。こうした場で若者間で流行している文化を吸収し、自らもその担い手となっていく。こうしたハードルは、大学生の方が明らかに社会人より低い。

絹と麦は、この「文化浸り放題期間」に出会った二人である。この時間に磨かれた感性で繋がった2人は、まずはお互いの共有する感性を通じて相手を知ることから始め、徐々にお互い自身が向き合い、心を繋げていく。ここで重要なのは、二人にとってお互いが持つ感性とは、お互いを知り始める入口であったのと同時に、お互いが持つ性質の一つとしても機能し続けているということ。簡単に言えば、「どうして絹/麦のこと好きなの?」と聞かれて答える理由の中に「響き合う感性があるから」という理由が入り込んでいる。この「相手の感性が好き」という理由が、相手自体を好きである理由の何%を占めるかは分からないが、それが大きければ大きいほど、その感性が変化するのと同時に相手への好意も当然変化していく。そしてこれもまた当然だが、大学生の彼/彼女が、社会人になっても変わらずその感性を持ち続けていくかは未知数である。なぜならば、時間と心に余裕のあった大学生とは異なり、自立しようとする社会人は生活のことで頭が満たされざるを得ず、変わらず時間と心に余裕を持ち続けられるかは保証されていないから。そしてこの映画でも、この「感性の変化」がトリガーとなって2人の関係の雲行きを怪しくさせていくのである。

さて、この前編では『花束みたいな恋をした』の特徴について書いてきた。後編では、視聴後の感想と分析について書いていく。ストーリー展開について若干のネタバレを含むので、ネタバレNGの方は注意。

『花束みたいな恋をした』映画ノート(後編)
有村架純と菅田将暉演じる大学生の二人が、社会人になるまでの恋の成長を描いた『花束みたいな恋をした』。この後編では映画視聴後の感想と私なりの分析を記載。あらすじと特徴は前編へ。

出典

  • 監督:土井裕泰、脚本:坂元裕二、2021年公開『花束みたいな恋をした』

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