『花束みたいな恋をした』映画ノート(後編)

映画ノート

この映画のあらすじ/特徴

この映画のあらすじ/特徴については、「『花束みたいな恋をした』映画ノート(前編)」で詳しく書いているので、こちらをお読み下されば嬉しい。本記事にも大きく関連しているので参照してみてください。Thanks for reading!

視聴後の感想と分析(※ネタバレ注意)

日本の社会構造に翻弄される2人

絹と麦は大学在学中から同棲をスタートし、共に就活を経験する。しかし、絹は圧迫面接を経験して傷つき、自尊心を失って衰弱。イラストレーターを志す麦はいくつか小さな仕事を貰うことが出来たものの、その弱い立場につけこまれ搾取に遭い、先が見えなくなってしまう。結果、2人はフリーターとしての道を選ぶことに。お互いにアルバイトをしながら趣味を楽しみ、大学生活の延長のような生活を送っていた。

しかし、正規雇用に就かなかった2人を見る周囲の目は厳しかった。特に、麦の父親は彼に地元に帰ってくるように言い、それが出来ないなら仕送りは止めると宣言。だんだんと経済的余裕を無くしていく2人。ついに麦は「絹ちゃんとの(生活の)現状維持」のために就職することを決意し、就活を再開することに。

しかし、もはや新卒ではない若者が正規雇用に就くのは途方もなく大変だった。何社も何社も応募して、応募して応募して落ちて落ちて応募しての毎日。絹は頑張って取得した簿記の資格が認められ、事務職をGETするが、麦にはなかなか内定が出ない。そして永遠に続くかと思われた就活の末、やっと引っかかった物流会社に入社。しかしそこはブラック企業だった。

「5時には絶対に帰れる」とのことで入社を決めた物流会社だったが、休日にも電話がかかってきたり、家に仕事を持ち帰らねばならなかったり、だんだんとプライベートを侵食されていく麦。次第に絹と共有していたはずの趣味にも手を伸ばさなくなり、絹が勧めた本を、仕事で来た電話に出るためにポイと投げ捨てる始末。それを見た絹も「自分との生活を守るためだから」と仕方なく横目に見ているものの、不穏な気持ちにならざるを得ない。こうして二人の間に生まれた亀裂は、麦の仕事が常習的に忙しくなっていき、麦の自己肯定感が低まっていくにつれて、徐々に広がっていく。

私は二人の就活がなかなか終わらない姿に涙を流してしまった。普通に大学を出て、一晩中自分の好きなことについて語れる感性と情熱を持っている若者が、画一的なリクルートスーツに身を包んで無個性に沈まねばならない就活という儀式。「学生時代に力を入れたこと」などをはじめ、その400字弱の文章・2分強の言葉の中で4年間を簡潔に濃縮させなければならない。そこで語りきれない、いい印象を残せない、そのぐらい強い思いを抱いている人はどう相手に伝えればいいのか

さらに、二人がどんどんすれ違っていく大きな一因となっている麦の勤務環境。プライベートにまで入り込んでくる仕事だが、やっとのこと引っかかった正規雇用を手放せない彼は、社内の精神を信奉していき、文化に染まっていく。さらには、そうはならずに適切な距離感を持って働いている絹を「お前はいいよな」という目で見たり軽んじたりする始末。これは、麦の人間性に問題があるというより、そうまでして会社に己を捧げねばならない社会環境に問題があると思えてならなかった。

2人はお互いを見ていたのか、それともお互いの「感性」を見ていたのか

ここで言う「感性」とは、「嗜好」とも「着眼点」とも「好みの傾向」とも言い換えられる。

作中では、二人が合言葉のようにお互いの感性を確認しあうフレーズが登場する。それが、

「その人は、今村夏子さんの『ピクニック』を読んでも何も感じない人だよ」

例えば絹の圧迫面接をした人間や、麦の取引先で彼に延々と頭を下げさせた人間に対し、二人はこのフレーズを使っていた。

だが、会社の洗脳を受けてボロボロになっていく麦は、映画後半でついにこう言う。

「俺はもう、(今村夏子の『ピクニック』を読んでも)何も感じないんだと思う。……パズドラにしか感じないんだよ」
(↑ここでパズドラ選んでくるあたりも分かってるなあと思う。パズドラは私たち世代が中高生になるときに隆盛したんだよ)

感性は変わっていくものである。「前編」でも書いたように、文化を最大限楽しむことができるのは経済と心に余裕がある時だ。その人の置かれている状況次第でいくらでも変わりようがある。だからこそお互いに余裕のありあまるモラトリアム時期の感性で共鳴し合った二人は、お互いを取り巻く社会・経済的環境が変化し、さらにお互いの感性が変化したとき、「あれ、こんなはずじゃない」と感じてしまう。感性で繋がった後、お互いが持つ本質で繋がれなければ、いつまでも寄り添って生きていくことは難しくなる。

その一方で、では本質を見るってなんだ?という疑問にも行きつく。その定義や感じ方は人によるかもしれないが、私は「いろんな状況にいる相手と過ごしてみて、違和感のない部分を見つけられたとき」に本質で繋がれたと言える、と考えている。例えば、自分と二人きりではなく集団でいるときの相手。自分の家族や友達といるときの相手。追い風が吹いて調子に乗っている時、向かい風で弱っている時。その時々に相手の本質がチラリと見える。そのそれぞれに違和感がなければ、それはきっと自分と本質で共有できている部分があることの印。私はそう考えている。

だから、経済的に追い込まれた麦のこの態度も、彼自身が持つ本質の一側面なのだろう。大学時代には見えなかったその本質は、絹が持つ本質とはマッチしなかった。

映画後半、二人の姿がGoogleアースに写っているのを麦が発見する。それに対し、私のパートナーが「その時の感性でつながった二人が栞みたいにネットに留まっている感じが切なかった」と言っていたのが、言い得て妙だと思った。

傍観者だからこそ言える「こうすれば良かったのに」

私は現在お付き合いをしているパートナーとは4年目を迎えた。パートナーは2つ上なので社会人3年目。つまり、この映画で絹と麦が経験している「モラトリアムから社会人への移行」は、既に経験したカップルだといえる。

だからこそ、「こうすれば良かったのにね」については映画が終わった後、いろんな話が挙がった。「絹が自分の趣味を固持せず、変わっていく麦と歩調を合わせればよかった」「麦が転職すればいい」「どんなに忙しくてもお互いの考えを共有する時間をとればよかった」…でもこれは全て、冷静な傍観者だからこそ言えること。その中でも「転職すればいい」などということは、私たちに学歴と金銭的余裕と「社会でやっていける」という自負があり、さらには親身に支えてくれる家族がいるからこそ言えるのだ。そういった全般的”余裕”がない人々には、こんなことは決して言えない。改めて、スラック(=余裕)の重要性が身に染みる。

おそらく、この映画をご覧になった方、これからご覧になる方、映画の二人に対していろんな意見とアドバイスがあると思う。我々がそれぞれ抱えているバックグラウンドは異なる。だから多様な意見が生まれる。だが、ぜひともこの二人の目線になるつもりで見てみてほしい。その上で、どうすれば良かったのか、どう感じたのか、あなた自身の考えを聞かせていただきたい(そしてここへコメントしていただけたら、すごく嬉しいです)。

タイトルの意味

タイトルの意味は明白(だよね…???あれ不安になってきた)。映画の中で、麦が絹に、ある花の名前を聞く。それに対して絹は「マ…」と言いかけて、笑顔でこう言う。

「女の子に花の名前を教わると、男の子はその花を見るたびに一生その子のこと思い出しちゃうんだって」
麦はそれに対しむきになって「教えてよ」と言うのだが、絹は笑って答えない。
二人がお別れした後、お互いに違う相手を見つけてお付き合いを始めるのだが、とあるカフェで”再会”してしまう。別れた後二人は、以前恋をしていた時のようにお互いに「今、彼/彼女は何考えているかな」と思いを馳せるのだ。
『花束みたいな恋をした』、それは「一生その子のことを思い出しちゃう」ものをいっぱいもらった恋をした、ということなんだろう。多分。素敵だ。

出典

  • 監督:土井裕泰、脚本:坂元裕二、2021年公開『花束みたいな恋をした』

コメント

タイトルとURLをコピーしました