教養とは何か?大学4年間で考えた成果をまとめます。

日々の思い

教養って一体なんなんだ

“教養”という言葉との出会い

高校3年で受験を終えてから今日までの4年間、常に考えてきたことがある。それは「教養とは何か」という問いだ。

大学受験の際、大学を選ぶにあたって様々な大学のパンフレットやWebサイトを閲覧した。そこでは多くの大学が「(うちの大学に入れば)幅広い教養を身につけられる / 社会人として求められる教養を身につけられる」との文句を並べていた。

それらに触れているうちに、「大学では“教養”というものを身につけられるらしい」「“教養”は、身につけた方がいいものらしい」ということを知った。大学受験に臨むまで、ほとんど耳にした事の無い“教養”という言葉。だからこそ、これから足を踏み入れようとしている大学という場所が礼賛する“教養”を、無条件にいいものとして飲み込んでいた。これが、その後4年間、私の頭を苛み続けていく“教養”という言葉との出会いである。

高卒時の私「なんでも知っていること=教養だと思うなあ」

日本の詰め込み型教育を経験してきた大学1年生の私は、「とにかくあらゆる分野に精通すること」「精通するとまではいかないとしても全ての分野について“ある程度”を知っていること」……つまり、「everythingについてsomethingを知っていること」を教養だと考えていた。東大王や雑学王など、色んなことを幅広く知っている知識人に憧れを感じたし、広い知識を持っていることは世界で活躍する人間にとって不可欠の条件だと思っていた。

そのため、自分に理数系の知識が不足していることに不安を抱き、文系の分野でも国際政治や経済の話となると抵抗を感じてしまうことに負い目を感じていた。だからこそ、その不足したsomethingを補完するために、あらゆる分野の本を、目的も考えず、ただ知ることだけを目的に読み漁る毎日。「教養≒幅広い知識 を持っていること」がなぜ必要なのかを一切考えようとはせずに、ただ情報と経験をインプットする日々を繰り返していた。

知識の量は機械に勝てない

この考え方を変えるきっかけとなったのが、大学1年時に参加したディスカッションだった。私は大学でディスカッションサークルに所属しており、私の同期が初めて主催したディスカッションで「教養とは何か」を議論した。その中で参加者の多くは、教養人の条件について『「いろいろな知識を持っているだけでは教養人とは言えないのではないか』と主張。さらに、「知識を持っているだけだったら、Googleが代用してくれる」という意見も出た。当時の私にとってこの視点は盲点で、そうか…単純な知識の量だけで争えば、人工知能など機械に人間は勝てないのだということに気づいた。

大量の知識を持っていることは、知識があることそれ自体が重用された一昔前とは違い、記憶量のある人間のみに独占された特権ではない。PCやスマホを開いて検索すれば、人間の脳の限界を超えた知識が手に入るのだ。それなら、私たちは何のために教育を通して知識を身につけるのだろうか?

教養について述べている書籍を読んでみた

教養の重要性を説く本を読んでみた

教養について書いている著者は以外と多い。大抵、タイトル名に「教養」とは冠しておらず、「読書論/本の読み方」として出版されている。その場合、「本を読む→教養がつく→社会人として役立つ」の流れで書かれており、「なぜ本を読むのか」に関して論じられる章に、教養の重要性が説かれている。

初めて手に取った教養/読書の本は、斎藤孝『読書する人だけがたどり着ける場所』(SB新書)だった。教養の重要性についておぼろげながらも認識している自分にとって、知識を身につけることのメリットを強調する本書は読んでいて心地よいものがあったのだが、いまいち消化不良のままで終わってしまった。というのも、この本は教養について論じてはいるものの、肝心の「教養とは何か」という問いについて、”溜め込むだけの知識と教養は違う”と曖昧な言葉で説明されてしまっていたためである。当時読んだ私は、その消化不良感を以下のように読書メーターに残していた。

教養の大切さを私は心の底から信じているし、数多くの齋藤さんの本を読んできたので教養のある人の強さを確信している。だが、一度「教養とは何か?」と立ち止まって考えた時、答えを探し当てられなかった。読書が作る「深さ」とは専門バカではなく、全人格で総合的なもの。これはわかる。多角的に物事を捉え、柔軟性を磨く。これもわかる。しかし、「雑学や豆知識は教養ではない」「物事の本質をとらえて理解することが重要」と言われたとき、「教養と雑学の垣根ってどこ?」「“本質”って何?」という私の長年の疑問への答えは見つからなかった。 読書メーター 2019/11/29 投稿

一方、池上彰『池上彰の教養のススメ』(日経BP)はたいへん参考になった。その中にあった、「すぐに使える知識は、すぐに使えなくなる」という内容に共感。これについてはまた後日改めて書こうと思っているが、ファイナンシャルプランナーの勉強をしていて非常に強く感じたことである。 こうして教養について書物を読み続け、ついに出会った「これだ!」という本…書名もズバリ『教養の書』(筑摩書房)。尊敬してやまない戸田山和久が書いた力作だった。

『教養の書』が教えてくれたこと

『教養の書』(筑摩書房)は、これから大学で学ぼうとする新大学生向け、またちょっと背伸びした高校生・中学生に向けて書かれている。

戸田山節(語りかけるように平易に書かれているが、たまにハッとするほど鋭い指摘が飛んでくる、ユーモアに富んだ語り口)が大好きな私は、面白すぎて夢中になって読んだ。面白かった理由は、文章ももちろんだが、「そうそう!教養のこういう点が知りたかったんだよ!」という点にガツンと触れられていたところ。

例えば、戸田山は「大学生が大学で学ぶ意味・意義は3段階ある」と説いている。それは、①学ぶ当事者にとっての意味、②国家にとっての意味、そして③人類にとっての意味。私は③にいたく感動した。戸田山曰く、「私が学ぶ人類にとっての意味」は「古来から続く知の遺産を受け継ぐリレーに参加すること」なんだそうだ。こんなの彼に言われなければ一生気づくことはないだろう。この瞬間、私は、戸田山が考えた「教養とは何か」という知を彼からリレーし、それをここに記し、今読んで下さっているあなたにリレーしている。『教養の書』を読んだことで、私は学び、知の遺産リレーに参加できている。

他にも、「教養は楽しみを増やし、生きることを豊かにする」ということについても触れ、具体的にどう豊かにしてくれるのかを、文中では『ダイハード3』と聖書の間のリンクを用いて説明されていた。詳しくはぜひ本書を読んでください。 しかし『教養の書』から学んだ最も大事なことは、教養という言葉が内包する「知識+α」の”α”の部分だ。戸田山は、「知識量が多いと人生楽しいぞう」と論じ、「だがそれだけでは『教養がある』とは言えないぞう」と言う。文中ではαの中身を非常に細かく定義しているのだが、私が最重要と思った点だけをここに書く。

それが「一問一答のように断片化されている知識をつなぎ合わせることができる力」だ。 知識は点と点である。1927年に日本で金融恐慌が起こった。これは片岡蔵相がきっかけで渡辺銀行が破綻したことがきっかけ。取付騒動。モラトリアムを要請する若槻礼次郎。枢密院の反対。若槻辞職。田中義一組閣。…今並べ立てたものは全てタコツボ型の日本史の知識である。 これを、「人々の社会心理」という観点から整理してみたら見え方は変わってくる。マートンの「予言の自己成就」が金融恐慌を引き起こしている。…今、点と点が、線で繋げられた。 さらに中国との外交という政治の観点から見てもいい。もっとマクロに、その時期のアジア情勢からも俯瞰できる。そしてさらに、こうした過去の出来事を今起こりつつある出来事に応用できたら、それは点同士が繋げられた線が、過去から現代、そして未来にまで繋げられるではないか。これこそ、教養人だけが為せるワザである。…今の私は、こう考えている。

「”教養”とは何か」、答えへの道のりはまだ遠い

ここまでつらつらと教養について考えてみた。今現在の私が持つ「教養」の定義、それはこうだ:

「溜めた知識と知識を結び付け、現実とも関連付け、できればその力を人のため/社会のために使い、学び続ける人」を教養人と定義する。その人が持っている性質が教養である。

とりあえず、これが大学4年間で考え続けた結果至った、ひとまずの「教養」の定義である。だが、勿論これで満足しているわけではない。自分自身も教養人となるべく研鑽中の身であるし、より一段階上の知識を身に着ければ見え方/考え方も変わるかもしれない。だから私は今日も、新たな本に手を伸ばし、新たな知識への扉を開く。

出典

  • 池上彰『池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター篇』(2014.4, 日経BP)
  • 斉藤孝『読書する人だけがたどり着ける場所』(2019.1, SBクリエイティブ)
  • 戸田山和久『教養の書』(2020.2, 筑摩書房)

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